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地震雲?
 『小千谷の上空に地震雲が出ているから気をつけて』
10月31日は、私達家族が長岡の姉妹の家に居候を決め、3台の車に荷物を積み込み、引越しを始めた。引越しキャラバン隊

 運転中に携帯がなり電話に出ると、昨日取材を受けた記者からの電話だった。
「佐藤さん。今、柏崎に向かって走っているんだけど、小千谷の上空に竜が空に昇るような地震雲が出ているから気をつけて」と、言う内容。
 私は地震雲の知識さえなかったので車を止め、空を見上げた。
地震雲らしい雲は、このことだろうか?
地震雲?

 因みに31日は震度3を筆頭に16回の余震、11月1日は震度4を筆頭に12回の余震があった。(小千谷市のHP http://www.city.ojiya.niigata.jp/saigai/jishin02.html) より


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私の震災記録 | 20:28:17 | Trackback(0) | Comments(0)
分散居候を決意
 地震発生4日後に車で1時間ほどの長岡姉の家で体を洗い、一泊をした。もう一軒の姉の家も自宅に戻れると言う
姉達から「車に泊まっていないで、家族は分かれるけど私達の家に泊まってはどうか」と提案される。
 家族で相談をした結果、車で1時間の距離がある姉の家に車を持っている私とカミさんと長男、比較的駅に近い姉の家に次女と爺ちゃんが別れて泊まることにした。
 その旨を隣の家に伝えると「俺達は小学校のグラウンドで、テント生活をする」と言うこと。今まで一緒に生活をしていたのに、辛い別れだった。
引越しキャラバン隊 引越しキャラバン隊
 地震発生8日目。軽トラック3台、ラルゴ、サンバーにて引越しを開始。引っ張り出せる荷物は全て積み込んで、長岡の姉の家のほか閉店中の美容院を借りて、荷物をストックした。(先頭のワンボックスはお隣さんが宿泊用に、自分の勤める会社から借りて来たもの)
地震雲?
 長岡に向かって走っていると取材を受けた記者から電話がはいり「小千谷の上に地震雲が出ているから、これからの地震に気をつけて」とアドバイスが入る。
テント村テント村
(R10.23東小グランドより引用) お隣さんが入ったテント村ではないが、同じタイプのテントに宿泊していた。
その後、私が仕事を追え夕方に顔を出すと、ストーブをつけっぱなしでお婆ちゃんがマスクをしていた。
「婆ちゃん元気だかぇ」
「だめだ風邪を引いた」とマスク越しに話してくれた。小学生の子供達もお母さんに膝枕をしてもらいながら元気がない。
「気が変になりそう・・・。」はオヤジの精一杯のぼやき。
 
 このお隣さんもテント暮らしを観念して、ライフラインの復旧もままならない自宅に戻り、自宅玄関前で車上暮らしを始めた・・・。


私の震災記録 | 23:10:21 | Trackback(0) | Comments(2)
ボランティの炊き出しも活発に
震災地から(中) ボランティアと心通じて
 地震6日目ころ
救援物資も不足をすることがないようになり、あちこちのボランティアの方が炊き出しに来てくれるようになる。
近所の人は「○○の炊き出しが美味しいから、そこに言ってみよう」などと炊き出し試食ツアーなるものも流行し出した。
 お陰で被災者もストレスが溜まらず、笑顔が見えるようになる。ボラの方々には感謝、感謝である。町内へ炊き出し部隊が(雅楽演奏つき)
(写真は11月10日)近所の団地の十字路で炊き出しを受ける住民と、その脇では大学生による雅楽の演奏も堪能できた。


魚沼産コシヒカリ | 11:52:00 | Trackback(0) | Comments(0)
レッドカード
 私の留守に中に、家屋の被害調査の方が着てくれました。
結果は『レッドカード』レッドカード

 その場に居合わせたカミさんによると「家が浮いていますね~」と言われたそうです。
壊れたブロック

 仕方ありません。
家を支えるはずの基礎ブロックが、ごらんのように崩れてしまい、家が中に浮いてっしまっているんです。
 家の傾きは日ごとに角度をまし、柱のクラックは大きくなって行きます。そんな家の中で家族や姉妹の応援をもらいながら、家財道具の運び出しの毎日です。

期待と不安の我家の再建 | 17:58:22 | Trackback(0) | Comments(0)
近所の爺ちゃんが倒れた!(回顧録)
 地震発生4日目ころ(撮影日は若干のズレ有)
近所の爺ちゃんが倒れた!
グラウンドで車中泊
 グランドに車が並び、私達を含め大勢の人が車中泊をしていた。この頃「エコノミークラス症候群」など、知るよしもない。
 手前のヘリポートは物資の搬入だけでなく、天皇陛下や大臣などが降り立った。その後、ここに仮設テントが設営される。

 近所の爺ちゃんに
「爺ちゃんは薬を飲んでいないの?もし飲んでいたんなら、薬のある場所を教えて。俺が取りに行ってくるから」と言ったところ
「いや、たまに飲まない方が調子がいいんだ」と言っていたので、私もそのまま気にしていなかった。
 しかし、血圧が高くて薬を飲んでいたと言う。
車中泊と疲れからか血圧が上がり、「めまいがする」と言って倒れてしまった。
 幸い、私達の車のすぐ脇に赤十字の救急テントが設営され、そこで薬をもらいベッドで横になり事なきを得た。しかし、これが2日間続いたので、東京の長男家族にその旨連絡をしたところ、長男夫婦とお孫さんが10数時間を掛けて長野経由で迎えに来た。小千谷の滞在時間は20分位だっただろうか。
 地震が落ち着いてからこのお爺ちゃんも元気に帰ってきて、私の家の爺ちゃんと一緒に旅行などに出かけている。
 体育館内も寿司詰め状態 芋を洗うような体育館内
 グラウンドと平行して、小学校の体育館内に避難した人も悲惨な状態だった。プライバシーはなく、トイレにも往生したようだ。特に女性とお年寄りの疲労度は計り知れない。

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私の震災記録 | 23:00:54 | Trackback(0) | Comments(0)
山の家は?米は?(回顧録)
 地震発生3日目
郵便配達の仕事を休んだようだが、今考えると休んだ記憶がない?
とにかく、爺ちゃんが建てて作業場にしている山の家に行ってきた。
 ここでもホンダのスーパーカブとBAJA・XLRが本領を発揮。
道路は陥没 陥没した道路
 陥没した道路を人が歩いて移動している。この中には多くのボランティアの方もいたはず。この道路の陥没なんて、路面が見えるだけ被害が少ない方だった。道路が崩壊して、道路の跡形も無くなっている所が何箇所もあった。そんな道路のないところは、側溝脇の犬走りを走ったり、二人でバイクを押し上げて山の家にたどり着いた。
 見るも無残・・・ 山の家
山の家にたどり着くと、戸がはずれ、ガラスが割れて見るも無残な姿に・・・。
山の家
 残しておいた家族と兄弟分のお米だけは、近所の人がシートを掛けてくれて無事だった。
地震の起きる2年ほど前に屋根の瓦をトタンに張替え、外壁もトタン張りにしていたのが、室内はともかく家自体の被害を少なくしたようだ。
 その後の調査でこの家は「半壊認定」。多くのボラや兄弟たちの応援をもらって後片付けをしたが、割れたガラスの数が27~8枚だったような記憶がある。

 棚田は壊滅
「早く帰ろう」と、言う長男をよそに田んぼを回ってみる。
田面は波を打ち、全ての田んぼにクラックが入り畦が落ちている。
農道も水路もズタズタ・・・。これが棚田の宿命か???
 途方にくれながら、長男と道なき道を2台のバイクで引き返した。

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私の震災記録 | 23:50:53 | Trackback(0) | Comments(2)
グラウンドと車庫で共同生活(回顧録)
 地震の翌々日、月曜日。
カミさんと長男はとり合えず会社へ行くも、自宅待機。長男が背負うほどの乾電池を買ってきた。
私は朝の新聞配達と、日中は郵便配達・・・。
 こんな一大事だからこそ、新聞配達も郵便配達も休めません。
新聞配達は停電で街頭も有りません。その上道路は陥没と隆起ばかりでなく、倒れた電柱や樹木が通りをふさぎ、命がけの郵便と新聞配達だった。
 月曜日あたりから救援物資が届き始め、グラウンドではカミさん達が爺ちゃんや子供達の食料を何とかしていたようだ。
夕飯はバーベキュー 庭でバーベキュー
 雨が降り始めたものの、一緒に避難をしたお隣さんと、食料を引っ張り出し、私の家の傾いたパイプ車庫で夕飯を取る。
「電気も来ないし、冷蔵庫の中のものを傷む前に食っちゃおぜ。燃料は、柱を一本ずつ燃しても結構あるぞ」などとキャンプ用品とローソクで、バーベキューを始める。
無事に生きていることを喜びながら、みんなで少しばかりビールを飲みました。このパイプ車庫は大雪にも耐え、翌年の春まで無事だった。(私の自慢作)
子供の笑顔が、せめてもの救い 子供の笑顔が、せめてもの救い
 余震はあるものの、みんなが顔をあわせれば心も和む。子供の笑顔が、みんなが生きていることの証です。
 爺ちゃん同士も励ましあって 年寄り同士で励ましあい
 爺ちゃん同士は車の中でも一つの布団で眠り、
「生きていねぇばなんねぇ。二人で長生きしようぜ」と、手を握っていたそうだ。
地震の二日後。爺ちゃんたちにも、ようやく笑顔が戻りました。
 この日、近所の一人暮らしのお爺ちゃんの身内の方に、ようやく連絡が取れた。
「何不自由なくとは行きませんが、取り合えず暖かくして一緒にいますので安心してください」と、伝えるのが精一杯。

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私の震災記録 | 23:24:17 | Trackback(0) | Comments(3)
救援物資は届くものの
 地震発生1~2日目
救援物資が届き始め、食べるものには困らない。(写真の撮影日に前後有り)
しかし、車上暮らしと後片付けの毎日・・・。
焚き火を囲って 焚き火を囲って打ち合わせ
 地域消防団は集まれる者が集まって、焚火を囲みながら今日の巡回コースと作業の打ち合わせ。消防自動車で巡回をすると防災だけでなく、声をかけることで地域の人に元気が出る。
食事は相変わらず車庫で 食事
 食事
 このこらから救援物資が豊富になり、朝食は小学校のグラウンドで提供された物を頂き、昼食と夕飯は家の後片付けをしながら我家の車庫で食べるようになった。しかし、メインはカップラーメンとパンだったような気がする。
 
 良く見ると、パイプ車庫も家もあちこちに傾いていることに気づく。

魚沼産コシヒカリ | 21:52:46 | Trackback(0) | Comments(2)
とり合えず、みんな無事でいるから(回顧録)
 地震翌日の未明、避難場所を小学校グラウンドに移動。
隣の家と車を並べて止め、更に布団を持ち出して年寄りが横に慣れるようにした。隣の家とあわせてワンボックスカーがを3台並べ、バイクと自転車が2台づつあったことが幸いした。
 この日から、小学校のグラウンドで車上生活がスタートする。

あさ、6時頃。
集まられる消防団員が集まり、焚き火を囲いながら缶コーヒーを一杯のみ
「とり合えず、消防本部へ行こう」と、消防本部(地震対策本部)に向かう。消防本部も騒然としている。
 消防本部から私達地域の消防団に「東山地区の被害が大きい。行方不明者も出ているらしい。3人づつ2グループで朝日集落の不明者の安否確認。岩間木まで行き状況把握」との指示が出る。

 私の近所の顔消防団6人で私の軽トラックに自転車を積み込み、私はバイクで東山入り口へ。そこは、後に一家4人を車ごと飲み込み長男が奇跡の生還をした現場だった。
道路が川に 道路が川に・・・。
 そこに軽トラックを乗り捨て、自転車とバイクで東山地区へ入る。土砂崩れで川が埋まり、上流で決壊した無数の養鯉池から土石流となり、道路を流れていったとのこと。
 私達が歩き出すと家の壁には土石流の流れた後から、1mほど水位が下がっているのが分かる。道路には流れてきた車・木の根っこなどが無造作に残っている。
  現場は乗り物などが使える状態でなく、とぼとぼと歩いて川となった道路をひざまで水につかりながら歩き出す。
「腹が減ったなー」
「そういえば、昨日のお昼を食ったきりだもんな~」などと言いながら、
ひざまで泥水に浸かり消防団本部との情報伝達・水と食料の運搬・御年寄りを負んぶして避難補助などを手伝う。結局、東山地区と消防団本部を5往復した。 

 午後2時過ぎ。
東山地区から消防団本部に戻り、
「俺にも家族がある。そろっと帰してよ」と申し出る。
「佐藤、何か食ったか」と、顔見知りの消防団本部役員。
「昨日のお昼を食ったきりだよ」
「これを食えや」とパンと飲料水を貰った。
ようやく家族が避難している学校に戻る。

そして、家の中の様子を見ることが出来た。
爺ちゃんがいた居間 リビング
 地震発生時、この居間に爺ちゃんがいた。家には爺ちゃんと長男しかおらず、長男が「爺ちゃん。今、行くから動くな」と2階からが降りてきて引っ張り出してくれたそうだ。今でも兄弟には「爺ちゃんが無事なのは、長男のお陰。」と言っている。
2階の寝室 2階の寝室
 もしここで眠っていたら・・・。
 
 みんな無事だから心配しないで
地震発生から、兄弟に無事を知らせようと携帯を入れるが、連絡が取れたのは24日・午後10時過ぎ。
「とり合えず、みんな無事でいる。連絡を取れないから、無事でいることだけを兄弟に知らせて」と姉に連絡するのが精一杯。

 地震発生時に長岡の高校でバレーボールの練習試合をしていた次女は、そのまま学校に止まり、この日に長岡の甥から迎えに行ってもらいかえって来た。長女は東京の大学の寮で寝ていたら、同僚から「小千谷ってアンタの家があるんじゃないの」と、知らされたとか・・・。
後日「東京で、家の近所がTVに出るとは思っていなかった。」と言っていた。

私の震災記録 | 23:19:46 | Trackback(0) | Comments(6)
地震当日(回顧録)
 私はボランティアグループで取り組んでいる「割り箸リサイクル」のために、炭窯に煙突をセットして火をつけようとしていました。

「ズッドーン!!!」と付き上げるようにゆれ、更に激しい横揺れ。
一瞬、何がなんだか分かりません。
「ヤバイ!!落ちる。」炭小屋が山本山の崖の上に建っているため、とっさに思い、崖からはなれました。
「マズイ!軽トラックが落ちる」と、軽トラックを移動するために乗り込むと再び激しい揺れが・・・。
「いったい、何がどうなっているんだ。」慌てて軽トラックを移動させ
「家に帰らなければ」と、こわごわ車で7~8分離れた家に引き返しました。

 家の前の道路が広くなっているため、近所の人が集まっています。
爺ちゃんも長男が手を引いて外に出ていました。
集まった近所の者同士で安否を確認し合い、揺れが来るたびに悲鳴が上がります。
 隣の家の家族はお父さんが帰っておらず、子供を含めた女性4人で怖がっていました。
私はゆれの隙間を縫って家に入り、玄関に下げてあったジャンバーなどを取り出し、爺ちゃんや隣の子供達に着せます。

 誰ともなく
「避難所はテクノ・アカデミーだからそこへ移動しよう」と言うことになりました。
私達家族と隣の家と、近所の一人暮らしの爺ちゃんと車でアカデミーのグランドに移動し、私の家の2台と隣の家の車を並べ
「この桜の木の隣の車3台が目印だよ。何があってもここを動かないで」と言いつけ、私はバイクと毛布をとりに家に戻ります。

 私が毛布を窓から投げ出し、バイクにくくりつけていると隣の家のお父さんが帰ってきて、
「おい、みんな無事で一緒にいるから」と避難先まで、案内をします。

 それから私は地域の消防団の召集がかかり、消防車で深夜1時頃まで「危険な箇所には近づかないように」と、広報活動をしたり、けが人を病院へ搬送していました。
消防自動車で警戒中に友人からメールが
「家族で市外で旅行中。これから向かって、家に帰れるか」
「俺達も状況をつかんでいない。市内も満足に動けない。今は無理だろう。」と、返信をしました。

 私達が消防自動車で広報活動をしていると、地域ごとに集まり焚き火をして暖を取っている人から「頑張れよー」と声も掛かります。
地域のみんなが一つにまとまり、地震の夜を過ごしました。

 消防団には、翌日の6時半集合の指示が出ます。

レッドカード レッドカード
 地震の数日後、我家に張られたレッドカード。
傾いた家 傾いた窓
 地震の数日後。家の中に入り、身の回りの必要なものを持ち出しました。そのとき撮影した廊下の窓。
飛び出した基礎擁壁 飛び出したよう壁ブロック
 家の基礎が動いて、よう壁ブロックが飛び出しています。基礎部分がなくなり、家は浮いてしまっています。
引き裂かれた玄関の柱 引き裂かれた玄関の柱
 玄関の柱は、真っ二つに引き裂かれてしまいました。

私の震災記録 | 23:29:32 | Trackback(0) | Comments(0)

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