投稿日:2004-10-24 Sun
地震翌日の未明、避難場所を小学校グラウンドに移動。隣の家と車を並べて止め、更に布団を持ち出して年寄りが横に慣れるようにした。隣の家とあわせてワンボックスカーがを3台並べ、バイクと自転車が2台づつあったことが幸いした。
この日から、小学校のグラウンドで車上生活がスタートする。
あさ、6時頃。
集まられる消防団員が集まり、焚き火を囲いながら缶コーヒーを一杯のみ
「とり合えず、消防本部へ行こう」と、消防本部(地震対策本部)に向かう。消防本部も騒然としている。
消防本部から私達地域の消防団に「東山地区の被害が大きい。行方不明者も出ているらしい。3人づつ2グループで朝日集落の不明者の安否確認。岩間木まで行き状況把握」との指示が出る。
私の近所の顔消防団6人で私の軽トラックに自転車を積み込み、私はバイクで東山入り口へ。そこは、後に一家4人を車ごと飲み込み長男が奇跡の生還をした現場だった。
道路が川に

そこに軽トラックを乗り捨て、自転車とバイクで東山地区へ入る。土砂崩れで川が埋まり、上流で決壊した無数の養鯉池から土石流となり、道路を流れていったとのこと。
私達が歩き出すと家の壁には土石流の流れた後から、1mほど水位が下がっているのが分かる。道路には流れてきた車・木の根っこなどが無造作に残っている。
現場は乗り物などが使える状態でなく、とぼとぼと歩いて川となった道路をひざまで水につかりながら歩き出す。
「腹が減ったなー」
「そういえば、昨日のお昼を食ったきりだもんな~」などと言いながら、
ひざまで泥水に浸かり消防団本部との情報伝達・水と食料の運搬・御年寄りを負んぶして避難補助などを手伝う。結局、東山地区と消防団本部を5往復した。
午後2時過ぎ。
東山地区から消防団本部に戻り、
「俺にも家族がある。そろっと帰してよ」と申し出る。
「佐藤、何か食ったか」と、顔見知りの消防団本部役員。
「昨日のお昼を食ったきりだよ」
「これを食えや」とパンと飲料水を貰った。
ようやく家族が避難している学校に戻る。
そして、家の中の様子を見ることが出来た。
爺ちゃんがいた居間

地震発生時、この居間に爺ちゃんがいた。家には爺ちゃんと長男しかおらず、長男が「爺ちゃん。今、行くから動くな」と2階からが降りてきて引っ張り出してくれたそうだ。今でも兄弟には「爺ちゃんが無事なのは、長男のお陰。」と言っている。
2階の寝室

もしここで眠っていたら・・・。
みんな無事だから心配しないで
地震発生から、兄弟に無事を知らせようと携帯を入れるが、連絡が取れたのは24日・午後10時過ぎ。
「とり合えず、みんな無事でいる。連絡を取れないから、無事でいることだけを兄弟に知らせて」と姉に連絡するのが精一杯。
地震発生時に長岡の高校でバレーボールの練習試合をしていた次女は、そのまま学校に止まり、この日に長岡の甥から迎えに行ってもらいかえって来た。長女は東京の大学の寮で寝ていたら、同僚から「小千谷ってアンタの家があるんじゃないの」と、知らされたとか・・・。
後日「東京で、家の近所がTVに出るとは思っていなかった。」と言っていた。
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